今日も無事に仕事を終え、茶を飲むような穏やかな時間
体が痛くてできないこと、今どのように感じているか記すこと、知ること
一番大事なのは知ることだろうが
本を読んだり、動画でもこれだと思える人の話が聞けるのはありがたい
明日は早いから早く寝て、何時に起きて会社に行ったら何をして、というのは大事だが違うパラダイムの話としようう
今日の夜、体の調子がいいから15分走った。
170㎝、75kgといえば、良い体ではないのはご理解いただけるだろう。
しかし走れたのだ。体も今のところ痛くない。
私が私自身を終わりゆく存在と認めたのは、長い時間軸の中で功利主義的に見た時に、私のスペック、可能性がおわっているという話だが、それも異なるパラダイムの話。
そのように価値を下げる次元での話の時に、使、え、る、ものでそこに沈下してるのは私のカスいまだ学ぶもの
なぜなら、私が私の今を認め、私自身の他者との違いを認め、いまだ学ぶ者として己を律することになれば、私は私がこれから変わるものに向かって楽しんでいるものとなる。
逆算からの判断や、資金などを気にすること、これは必要なパラダイムもあり、そこに存するべき時もあるが、田舎に行かずとも、違う時間を体感することは己の意識なのだろう。
何よりもはっきりと異なるのは、、家族に対する感覚だ。
私は前に進むものだ。だからだろう。
以前は終わりゆくものとして、いずれいなくなる親やいまだ仲の良い風の弟や妹との別れについて、悲しく、話しているたびに泣きそうになっていた。
最初こそ感動していた父親も、いい加減に飽きている。
私より自由に生きれる弟や妹に劣等感を抱くこともあった。
しかし今は再び築いている。まだ小さなレンガだが、なぜそこに積むのか、わかっている。
わかっているでいいのだ。何が正しいかなど誰も理解していないし、私が私の理想のためにそのようにしているのだ。何も考えずに誰かの判断軸に沿って、よくわからず行動している者に微笑んで私はまあえを向く。
はっきりいえば、弟や妹、、父や母など、今はどうでもいいということだ。
彼らは彼らで生きており、別れる時が来れば、またそれは私にとって今生の行動をすべき時かもしれない。
しかし、私は私で変わっていくのだ。私がつかめるものを持って。
彼らがすでに持っていて、大したことのないものかもしれない。
しかし大事なのは、自分からつかみに行き、、自分で見上げている、、ということなのだ。
彼らは彼らで生きている。私は私を生きている。
何も誇りはしない、彼らが私のことをどう思おうと。
しかし見えている者しか見ない者など寄り添う必要もない。
私が改めて私を説明する者など、文字を打つ際に誤って出る、ちいさいっと同じくらいどうでもいい。
私はかれっらを愛している。私が彼らを思うことができる時間の範囲において。
見えているもののみ愛するもの。しかしそれでもそのほかの多く者よりも、私は私を感じないまま接している。その分だけ彼らをとても、愛している。
あなたはどうだろうか?
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