静かな夜と愚か者を呼んで

久々に1人で過ごす

荒れることもなく己を夜に引っ張っているようね。

でもふと思う

エゴやごまかしの産物だと

怒りやごまかしや逃げや

己がいくつであり、如何に大人の仲間でも、それを見せる場を減らしているだけだとわかる

己が行動する理由が怒りならそれを理由に生きていこう

だがつまらない逃げやごまかしにも向き合わなければいけない

それは悲しいことに見せたくない人に程はっきりと出てくる

一番愛した人に対して怒りを感じるし、もういいやと思うこともある

それが悲しくて、私は一人のほうがいいのかとも思う

だけどありがたいことに一緒にいてくれること

私たちは一人で考える時間が必要だ

何に対して怒っているのか、幻滅しているのか

立ち止まって静かに考え、静かに何かを行うこと

ちょうどこのように書くように

タダタダ 散文として記すことは幼稚ノ表レにスギナイ

未知ではない己を鏡に映すこと写そうという

愚か者の今日をつなぐためのタダの1歩なのです。

つまらない日常がひっくり返るかもしれない。

許される日が来るかもしれない。

ただ単純に簡単にうまくいかないことに苛ついているだけなのかもや。

愚か者はただ静けさに慌てている。

今日という日も明日という日も大好きであるために。

mark lettieri / can i tell something を聞く。

そういえば冷房の寒さに喉をやられ、風をひいて、それだから寝てから2時間ほどで消そうと奥さんに言ったら、暑くて寝苦しいから屋だといわれて、苛ついたのだった。(笑)

一緒にいられないじゃんそしたら、片方は喉やられて風邪ひいてんだからさぁ

ってなったんだった。人生いろいろだね(笑)

本を読んで、勉強して、

素晴らしい人たちの前では愚痴っても無駄だし

やることやってない自分が腹立たしいのだろう。

小人は小人ゆえに、大人は大人ゆえに。

ゆえに小人

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