命を30分で終えられるか?

 

1日を終えようとしている。

これまでは気づいたら終わっていた。やりたいことも何もやらずに。

そしてただ時間がなかったように感じていたのか。

最近の興味は間違っていない。

36歳の日本の社会人となって、リウマチで手足が思うように動かせなくなって、

生きている意味なんてなくてもいいのではないかと妻に言われるようになって、

ようやく再び、今を生きる意味を持つのかもしれない。

花粉症もつらい。弟や妹に比べて劣っているかもしれない。

自由に生きる資格を失って、僕は問う頭も既になく、そして生きる意味すらないのなら。

ギターやベースで自分の中や外に流れているものを瞬時に表現できること。

レッチリのジャムにいきなり入っていても喋れていること。

レッチリのジャムに参加すること。

自分が飽きないように、音楽を作れること。

私は傾倒しているものが多分に音楽であるが、編集や完成からは程遠く、一般的に見ればガラスの中で狗が吠えているようなものである。

しかし私が拙く生きていると世に小さくも問えたのは、それが心にあったからである。

その他のどんなものも本質的には価値がないと、私は私を息継ぎしながら生きてきた。

生きることに本当に意味はいらないだろうか?

意味がなければ、やることに価値がないなら、生産的なあらゆる行動、事に意味がない。

ただこうした言葉もなぜつないできたのだろう。

わざわざ言葉にする価値もないのに。

私は漫画でも歴史でも演技でも何も考えない力馬鹿が好きだ。余計なことは考えない。

しかし、考えるということ、答えを紡ぐことは、その時代的な文化や通貫しているはずの論理を通過してきている。

すなわち今であれば効率的であるかどうか、お金になるかどうかが、正しい価値観で、過去はそんなことにも気づかずに愚かしくゆったりとしていたという感覚である。

違うかもしれないのでそれは皆さんで考えていただきたい。私は私の庭で小石を縁側から投げているだけだから。

炎上にしても何を評価として失っても、人が見に来て、見に来るという価値にお金がついて稼いでいれば勝ち組だという自他ともに認める心理だろう。そのような理屈があることは反論はすれど理解できると思う。情報という仕組みの上に、眺めている我々はただの傍観者であることを認め、私には出来ないが、そのようにしている。と。

ただそれはあくまで資本主義という考えに則っているのだろう。

犯罪でなければ、金を稼いでいれば勝ち。正しい、清潔というイメージもその後は必要になるが、私が疑問に思うのは定義が誤っているかもしれないが、この資本主義やコスパ、タイパという表現にみるような効率化というものを至上として見るものである。

我々は知らず知らずのうちに斯うしたものから判断を下している。

成功のレールから外れれば、もはや遅れているのだから意味がない。

もっと社会から弾かれるような立場なら、なおのことなんせ社会がそうなのだからと思うだろう。

相対的な人との比較によって、つらいや劣等感を抱いていることは確かである。

腕が動かない。社会から劣っているのに、己の価値観からも全うすることすらできないのか。

ただ私たちは価値観や判断力を社会的なものにゆだねていることを知らねばならない。

これは人を救うための文でも学校にて発表するためのっものでもない。

私が私を救うためのものである。

もしくはAIの作る文の、劣っているモノ用としての文だろう。

いずれにしても私は私のための刃を持っている。

どんどんスピード化していく社会。

大国の動きのなかで決まっている物事。

私たちは自分で考え始めねばならない。

与えられていることや物に疑問を感じなければならない。

そして、孤独でも個でも真理でもいい。

なんでもいいが答えは人の中にある。人々と触れ合いながら、孤独でも真理でも語ればいい。

我々は、我と人を分断するものである。

だが別の語り口もある。

あなたが生きていると感じている時はどんな時だろう。

報道されることをひとまず、で信じてきた。

勉強することを怠って。

生きるたための価値観や基準を失って

何が正しい社会だろう。

今の社会に何が語れるか。

面白いと思うのか。

私はキクやアネモネは正しいと思う。

私たちは失ってはいけないのだ。

何をだ?

            何をだろうな。

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