『鵼の碑』京極夏彦

久々の更新をします。年間100冊の読書を目指して!(笑)

日本古来の妖怪にインスピレーションを得た作品。比較的宗教(学)や脳科学や文化人類学など、作者の半生で培ってきたのだろう興味や見地、見解が散りばめられている。

いつぶりだろうかの京極夏彦さんの新作。

難しいし知らない話しが多い。

今回は『』。最初はいつものように妖怪『鵼』の説明。

和漢三菜図絵?や詩?や能など古文の勉強かと思うくらいの長さの出出し。眠い。。私が勉強不足なのだ。。これがどんな伏線になるのだろう?わからない読者に向けて説明が必要と判断したのかな?最近は映画やドラマ、漫画も視聴者に向けてわかりやすく演技したり口頭説明することが多いですよね。(笑)

でも最初に現代語調で描かれる鵺という妖怪の一つの側面や語りは本当に好き。到着点もない、大した話でもないだろうが本当に美しい。

舞台は日光東照宮。神仏分離令によって離された神社と寺、もともとあった山岳信仰との融合の可能性。山の民という存在。

作者は、戦後日本にいた山の民という戸籍のない存在をどうして今描いたのだろう。

とは、頭が猿、体が虎、尻尾が蛇、鶏の羽の動物。

その昔、帝がいる都の上に黒雲を起こし、祟ったという。

ブロックごとに途切れた事実やつなげた出来事がまとめればキメラのように見える、という面白さ、不気味さ。

誰が主人公で誰が何を語っているのか。誰が帝で鵺となるのか。

京極さんの作品との出会いは最初の作品『姑獲鳥の夏』。

大学生の時に読んでから、京極堂の圧倒的な知識量、歴史や人間の認識、哲学をもってして語る。人間はそこまで調べて知って、語っていいんだと思った。本の中の人物ながら尊敬すべき人物としてマネしました。自信をもってサルトルに取り組みました。(いまだに取組中(笑))

作品の面白さは、以外にも単純な答えであったりする。最初から目の前にあったというような。

そこにたどり着くまでに、それを理解しやすいように、いつも様々な話を混ぜて書かれている。

全然関係ないが本がものすごく分厚いということ自体が勉強的な面も相まって購買欲をそそられるのかもしれない。とすればkindleはあまり売れてないのかな?私のようなファンがどれだけいるかの指標になるかもしれない。

さて今回の作品、読まれた方はどのように感じただろうか?

作りとしては無駄に長くなく、起承転結はしっかりしているように感じたが時々抜けているような、スッとしたような印象がある。

軽さはこれまでにない作品の特徴のように関したが、はっきりといえば、私の能力の低さも相まって、疑問が生まれたところが多かった。

登場人物の今をいかに殺せるかが、作者の腕の見せ所、生きているということなのかもしれない。

自体の持つ恐ろしさとはなんだったのか?

なぜ京極堂がそもそもそれを解決する能力があるのか?

物語の構造を壊しかねない今があり、そこからいかようにかして抜け出るか。少なからぬ影響を受けながら。だから京極堂は折衝することに常に難しい顔をしているのではないだろうか。

根底から生まれる恐ろしさに直面するには、そもそも知りえないこと自体は変えられないことがあったり、すべてを超えるスーパーマンではないということ。

今回の京極堂の解決については、様々な人がそれぞれの視点で調べていたにも関わらず、たった1週間かそこらで20年以上前の現実の出来事を推定(外部の人間にも確認して)して当事者を解決へ導く。

いつものことながら、今回京極堂自身の過去、自分に関わりのある出来事の一部だったとはいえラッキー過ぎはしないだろうか。鵺という話が大きなものだとするならば、彼も一部しか知りえない一人の人間であるべきだったのではないだろうか。一体鵺とは何だったのか?なんにしても断定できることなどないのだと思う。

それぞれが抱えている問題を問題自体をどうして彼はそこまで深く知りえたのか。集まった一回で解決できるよう全員それぞれに答えがあるように根回しまで終わっていること。

いつもならあぁ京極堂さん解決してくれええと思うことが、今回はああまあ解決するんだろうなと思った。当たり前ですが(笑)

嘘の実験、死体の移動。急に隠滅に動いて増えた遺体。それらの事象をその他の人間が半年以上追っていてわからぬ過去。説明とはいったい何なのだろう。

そして帰ってこなかった彼。彼は何を意味しているのだろう。

山の民は幻想的だというように去っていったが、彼らの内の一部は戸籍を得ていて半分こちらの社会の人間。当然のようにその妹も明るいキャラを捨て、去ったが、山の民として何のこだわりもなかったのなら、なぜ当然のように山の民のアイデンティを持っているように終わったのか?

公民館のように使っていたという山の民の寺へなぜ子供を産みに戻るのか?すでに現代で生きていて現代の病院という施設があるのに

お産の里帰りというなら、その山の民は皆そこに産みにきていたのか?場所という概念のなさそうな山の民、定住の場所を持たぬイメージがあるが、その山の民の寺はそのような場所なのか?

狩りで暮らしてるのであろうが家もないのか?

ちょっとうまく語れていませんね。(笑)

そこに意味や生活がある人物なのに、なぜ山の民は幻想的に消えないといけないのか。山の民側から視点がなんだか嘘くさい物のように感じてしまった。もちろん私の薄学のなせることと思ってはいますが、登場人物がうんうんうなずいて強制的に終わりになってしまったように感じました。ひろゆきさんの強硬論破に全員納得したようにして終わらせたかのような。(その場だけ勝とうとされている話しの時ありますよね(笑))

核実験があると信じて、彼はどこに行ったのだろう?燃える碑を見に行って死んだのか?なぜ誰も探さないのか?

放射能をバラまいていたという屋敷まで行って、そのあと何を調べにいったのー(笑)

いつも通り皆を諭し完結に導いていったが、それはこの鵺という出来事も京極堂という作品も小さくしたように思う。彼にだって知りえないことはあるはず。そもそも誰が何を悩んでいるか、全体を通してどんなストーリーであれば皆が納得するのか自体は、少なくともその当事者たちと話してみなければわからないはずである。

誰の心にも祟られたという感覚で、気が付いたら忘れていたという経験として終わることもっ恐怖の一つだったのではないだろうか?

京極堂は想定と道筋を示して。

ある意味では最近の夢枕獏さんの陰陽師のような。

わかっていてもどうしようもないこと。わからないこと。

その美しさは今回感じられなかった。

鵼という災いを人は避けえなかったのではないだろうか?

ただ京極夏彦さんの相変わらずの博学さというか、選ぶ題材の物凄さ。

西遊記が日光の寺から出土することに違和感を感じたり物凄い発見であるなんて、知らないことだし、それを物語の題材にすること自体、普段ほんとにそのような世界に浸かっているのだろうなと感じた。

仏教に対する興味や最初の関口さんと久住さんの対話。

また疑問や興味が薄れたら、繰り返して見たい京極さんの今が詰まっている作品だったと思います!

京極作品はどこから読んでも読めるので、ここから読んでも読めると思います。

出来れば最初の『姑獲鳥の夏』も読まれると、最初の認識の問題など関口さんの語りの根拠や成長?変化が感じられるかなと思います。

皆様のご感想やご意見お聞かせいただけますと幸いです。しぇばっ

『鵼の碑』

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